【ネタバレ全開ご注意ください】『Padmaavat』を観てきました!

メイン画像はWikipediaより、18世紀に描かれたパドミニ妃


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※1月30日現在すべての上映が終了しています。最新情報は主催者Spaceboxさんのサイトで確認してください。

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無敵の美 “Padmaavat”(ネタバレなし個人の感想です)


Masala Press特派員より、首都デリーでの『Padmaavat』上映の様子が送られてきました。

デリーの銀座と呼ばれている(ほんとかしら?)コンノート・プレースには取材班もよくお世話になっている映画館が3つあるのですが、いずれもバリゲードとパトカーでガードされているそうです。

PVR Plaza前

こちらは『Padmaavat』の延期された公開日と同時期に公開予定だったアクシャイ・クマール主演の『Padman』。超話題作とぶつかることを受けて2月公開に延期になりました(気の毒です)。

タイトル、途中まで似ていますが……

こちらはチケット売り場の掲示板。1日5回上映と気合が入っていますが、諸々を刺激しないためか、いつもはここに作品のビジュアルが出るところ、画像がありません。平日夜の回で鑑賞した特派員によると満席だったそうです。やはり、みな待ちに待っていた模様。

PVR Plazaのチケット売り場の電光掲示板

映画館への入場時にはいつも手荷物チェックとボティチェックがありますが、今回は特に厳しく、入場が大混雑だったとか。お菓子などもすべて没収されていたといいます。

Odeon Bigシネマ前。こちらもバリゲード&パトカー

バンサーリー監督の前作『Bajirao Mastani(2015)』では公式アクセサリーを受注販売していたジャイプルの宝飾ブランドAmrapaliも、昨年10月に掲げていたPadmaavatのアクセサリーの看板が撤去されていました。

高級宝飾ブランドAmrapali。公式アクセサリーは豪華で素敵ですが、お値段100万円など、手が出ません

そのほか、上映中も警官が定期的に館内を巡回していたそうで、やはりというかなんというか、厳戒態勢での上映といえます。

(写真・協力 / 森ふみ)

※以下、力の限りネタバレしています。しかも超長い! ご注意ください!※

 

映像の美しさ

ここからは日本で鑑賞したアンジャリの個人的感想です。

さて私にとって本作のサンジャイ・リーラー・バンサーリー監督の作品は、だいたいいつも感情移入というものができないまま終わり、そのくせ映像と音楽が美しすぎてうっとりずぶずぶと深みにハマって溺れまくり、結果的にはヨダレが出そうなほど大好きという少々扱いづらいシロモノです。

髪の毛一本まで絵にこだわる監督とのことで、確かにすべてのシーンに隙がないのです。それは至福の時間に違いないのですが、正直なところ、作り込みすぎていて目と頭がとても疲れます。またこの監督、ハッピーエンド作もあるのですが、悲劇で救いのない作品の印象が強く、イメージとしては常に辛気臭い(ごめんなさい)。

けれど、美は無敵。本作も美術館が目の前でずっと展開しているような、その映像美にはしょっぱなからやられました。今回初めてインド映画を3Dで観まして、周囲では見づらいという声もありましたが、私はかなり楽しめました。飛び出す俳優のアップもいいし、引きの遠景の手前に人が立つようなシーン、カッコよかった!

登場人物の美しさ

主演3人の俳優の美しさにはグウの音も出ません。

目で勝負する王

正統派美男子のシャーヒド・カプール、少々細身ではあるけれど、ラージプートの王ラタン・シンとして豪華絢爛な衣装が似合います。気が遠くなるような細かい手刺繍を施した白いシャツに、ホーリー祭の色粉をためらいなく塗りつけるなど、「わあああああ」と叫びたくなります。それ、洗濯どうするの〜っ? と一瞬、庶民な自分が頭をよぎりますが、無視無視。

彼は、目の演技がすばらしかった。

話は突然宇宙の彼方に飛びます。以前、インド古典舞踊のアビナヤ(簡単にいうと感情表現)の超名手といわれている人物がお弟子さんに稽古をつける現場に居合わせたことがありまして。普通は稽古に立ち会うなどありえない厳格な世界なのですが、そのときはたまたまそのチャンスに恵まれ、息をひそめ存在を消して拝見しました。

「あなたのはただキーキー怒っているだけ。クリシュナ神の不実に、最初は怒り、次に嫉妬に燃え、最後は悲しみに襲われる。その目をやらなければダメ。一度だけやるからよく見なさい」

そして目撃してしまった、名手のほんの20秒程度の目の演技。全身の毛穴、総立ちでした。

古典舞踊にもいろいろあるのですが、その古典舞踊のアビナヤは、ただなんとなくフィーリングで表現するものではなく、様式に則って計算し尽くした顔の各パーツの動きをシンクロで行うもの。眉や眼球から額のシワ、頬、口元、すべて動員します。顔面ってこんなに物理的に動くものなのかと驚きます。偶然見た名手のお手本は、その場で魂が抜けるかと思うような完成度でした。

くだんの古典舞踊ほど大きな動きではありませんが、今回のシャーヒドは、怒り、蔑み、悲しみ、そして誇りといった具合に短いカット内に表情が細かく変化するシーンがいくつかありました。思慮深い王という役柄で全体的に抑えていたものの、表情がかえって際立ち、とてもとても味わい深く、ジーンと心に沁みました。

シャーヒドが踊る曲がなかったのがちょっと残念といえば残念ですが、じゃあどんな踊りならこの王として違和感がなかったかと考えるとあまりイメージできないので、今回は踊る曲なしでもよかったのかも(いや、やっぱり見たかった)。

凶悪な野獣

そして野獣! ではなく、暴君を演じたランヴィール・シン。

同監督の前作『Bajirao Mastani』ではすっきり淡麗な剃髪のペーシュワー(宰相)を演じた彼は、今回は荒ぶる長髪をお下げにし(ちょっとかわいい)、宝石でジャラジャラ飾り立てたスルターン、アラーウッディーン

どう猛な一面、意外と見た目にもこだわる洒落者の顔、そうとうナルシストなところ、完全に悪役。どこから見ても凶悪でしかないのに、愛おしくてなりません。

ラージプート側にいたものの追放された僧侶に「さらなる成功のためには類い稀なる美しさを誇るパドマーワティーを手に入れなければならない」とそそのかされ、その気になってしまいます。そのあたり随分安直にも思えたのですが、腕一本でのし上がってきた男はそういうゲンを担ぐものなのかもしれません。

やっとのことで王妃のいるチットールガル城へ入れることになったとき、めかしこんで、それまでの荒くれ者の歩みではなくちょっと浮足だった感じでいそいそと城に入っていき、王ではなく臣下のゴーラー・シンを王と間違えて抱きつくところなど、場内でもクスクス笑いが漏れていました。

そうそう、めかしこみの仕上げに香油をまとうスルターン。香油をいったんぶちまけてから身体になすりつけるという「そういう手があったのか」と目からウロコ(?)の新メソッドを披露していました。これはぜひ映像で見ていただきたいシーン。

身内の裏切りで拡大していくスルターンの王朝には、心の安らぎというものがなかったのでしょう。そんななか、より完璧な己を体現するものとして会ったこともないパドマーワティーを渇望するスルターンは、ときに滑稽でもあり、終盤どんどん余裕がなくなっていく様は切なくもありました。

チラ見せで終わってしまって、ああ、かわいそう(初見終了時、最初の感想がこれ(笑))。

彼が踊る一曲がもうとにかく震えるカッコよさ。ダークなスルターンをこれほどインパクトある映像にしたのはほんとうに素晴らしい。前作『Bajirao Masitani』でも宰相が戦に向かう前の曲”Malhari”の長回しカメラによる戦士たちの踊りに魅了されましたが、今回は邪悪さが存分に加わって、シビれました。

映像は昨日の1月29日に公開されたばかりのホヤホヤ。最後ちょっとネタバレ気味なのでSNS等で流す場合はご注意を。

最初に出てくる「Habibi」という呼びかけ、私は昔エジプトの流行歌をリサーチしていたときに知った単語で「愛しい人」、つまりヒンディー語/ウルドゥー語でいうところの”Meri Jaan”で、この言葉の響きと、ヒンドゥスターニー音楽にはない旋律によって、スルターンが西方からインドに攻め入ってきた人物であることがよく分かります。

ついに女神に

さて本作で圧巻の存在感を見せたのは、もちろん王妃パドマーワティーを演じたディーピカー・パードゥコーンにほかなりません。

もうどこにもなんのケチのつけようもありません。完璧な気高さ、完璧な美しさ。

冒頭、少女のあどけなさを残して森に登場したときの神々しさよ。

ディーピカー演じる王妃パドマーワティーは、遠い異国シンガル王国にやってきたメーワール国王と出会い、求婚を受けてはるばる嫁いできた人物という設定です。

メーワール王国に到着後、ブラフマン(僧侶)との面通し(?)があります。そのときの毅然とした返答にラージプートの王妃となる覚悟が感じられました。

「幸せとはなにか?」

「愛とはなにか?」(記憶あやふや)

といった小難しい問答が哲学的で素敵だったのですが、残念ながら出てくる単語が難解すぎてあまり聞き取れず、字幕頼り。そしてこういう部分の英語字幕はだいたい雑なので、ぜひ原文の台詞を知りたいところです。

パドマーワティーはラージプートの生まれではないという前提がまずあり、王や王を取り巻くラージプート族に触れるうち、真のラージプート魂を培っていき、最後はまごうことなきラージプートとして女たちの先頭に立ちます。

終盤近く、ごく密やかに別れを交わす王と王妃が、目に涙をたたえ見つめ合います。そこでふと、無垢な少年と少女のように微笑み合う。

ここで涙腺崩壊しまして、以後、ラストまで止まらず。

ジョウハル(あえてなにかはここでは書きませんのでググってくださいませ)の決行に向かい歩く姿、目を閉じる前の穏やかな微笑み。

泣きましたねえ。

作中で何度かインド二大叙事詩のひとつである「ラーマーヤナ」の引用があり、ラーマ王子やシータ姫のことが出てきました。ラーマーヤナのラスト近く、シータ姫は身の潔白を証明するために炎の試練に臨み、みごと突破します。なんとなくそんなことを思い出したり。

本作、冒頭で「サティー(こちらもググってください)を推奨するものではない」というアナウンスが入りました。この作品はそのようなものをことさらに美化するものではなく、美しいものが美しいまま昇華していく、そのやりきれない虚しさと同時に湧き上がる、「穢したくない」という人心を表現したのだと思いました。

大切にしている綺麗なお人形さんが月日ともに汚れていくのが悲しくて、ならばそうなる前に潰してしまえ! というような身勝手で残酷な感情、とでもいいますか。リアルなら汚れようが踏まれようがしぶとく雑草のように生きて生き抜け、と思うし私自身そういうタイプですが、この作品はフィクションなので、綺麗な残酷物語も私はアリです。話、また宇宙の彼方に逸れてるけど。

そうそう、女たちは最後に強烈な抵抗をするんですよ。石つぶて(火のついた炭)に打たれ後ずさりする暴君がスローモーションで描かれていました。奪っていくだけの者に与えられるものはなにもない。女性の自己犠牲という側面では批判もあるだろう本作に、このシーンが入った意味は大きいと思いました(追記:ここのモヤモヤは『Tiger Zinda Hai(2017)』でカトリーナ・カイフがズバっとやってくれているのでこちらも誰か日本で公開してください)。

愛と信頼で結びついたままラストを迎える王と王妃と、終盤、思い通りにならない相手を目の前に、憔悴していくスルターンと。

戦としてはスルターンの軍が勝利しますが、一番手に入れたかったパドマーワティーがスルターンの目に触れることはありませんでした。

台詞の美しさ

現代劇のボリウッド作品は、ルー大柴語のように英単語がところどころ入るので、言葉がたいして分からない私でも(英語に例えるなら理解度は中2レベルくらい)、半分くらいは会話の流れを拾うことができます。

ところが本作は歴史物で、かつ、特にラージプート側の台詞は格調高い感じの言葉で彩られていて、まあ、聞き取れないことときたら……。

とはいえ、いくつか心に残った会話がありました。

香油の名

冒頭、スルターンに贈り物として連れて来られた宦官の奴隷。

スルターン「名はなんという?」

宦官君「マリク・カーフール」

スルターン「違う、おまえがまとっている香油の名だ」

宦官君「ジャンナトゥル・フィルドース(Jannatul Firdaus=楽園の園)」

ここの香油の名前が覚えられず、ツイッターで聞いたところ、元・東京外国語大学のウルドゥー語教授でいらっしゃった麻田豊先生に教えていただきました。

香油の名前の意味がわからなくても無性にゾクゾクくるシーンだったのですが、意味がわかってさらにゾクゾク。

イスラーム教徒の楽園といえば、それは死後の天国をさします。

ちょっと記憶が怪しいですが「美しい水をたたえたせせらぎがあり、美酒が流れる川があり(天国なのでお酒もアリのようです)、音楽が流れといった、よいイスラーム教徒だけが行ける場所」。

身を寄せるスルターン、妖しく微笑む宦官。そして天国の香り。とくにこの手の設定が好きなわけではない私もシビれます。

麻田先生がこの名前が耳に入ったときに震えたというのもわかる気がします。

この宦官マリク・カーフールは歴史上も実在の人物で、有名な宦官の指揮官として名を馳せたとか。

ダイヤの輝きと切れ味

スルターンの策略で捕らわれの身となった王。

目と鼻の先には自らのチットールガル城。テントの外には臣下もいるにも関わらず、砂漠の嵐がすべてを覆い隠し、絶体絶命。

「連れてゆくがよい。ダイヤは奪えても、その輝きまでは奪えまい」

不敵に微笑みます。

その後、王は王妃によって救い出され、いったんはチットールガルに戻ります。

最後にラージプート軍とスルターンの軍がいよいよ対決、というとき。

砂漠の広大な戦場に、王がひとり、馬に乗って先頭に出てきます。

「私が行って倒しましょうか」と聞くマリクを制し、スルターン。

「いや、ダイヤを斬るにはダイヤでないとダメだ」

このあと一騎打ちになるわけですが、いやあ、カッコよかった。

別れの言葉

英語字幕に情緒がないなあと思うところ。

スルターンの妃が、王と王妃を逃す場面。

秘密のトンネルの扉が閉まる間際、妃が王妃にひとこと。

「Khuda Hafiz(Khodafez)」

イスラーム教徒の別れの言葉で、去って行く者に対して「神のご加護を」と祈りを込めた言葉です。

ここに英語字幕”Good bye”

いや、わかりますよ。英語のほうの語源も、もともとは同じような意味合いです。

英語の母語話者がどう感じるかは聞いてみたいところですが、私には「グッバイ」ってなんだか、チャラい。

ほかにもイスラーム文化をちょっとかじっていると聞き取れる言葉がありまして、やはり、少々チャラい英訳。

日本語字幕がつくことがあるとしたら、さてどうなるのでしょうね。

ちなみにこの言葉は、(しつこいくらい何度も書いていますが)同監督の前作”Bajirao Mastani”でも、母が幼い息子と別れざるを得ない局面で使われていました。

脇を固める登場人物

主要キャストだけでも長々と書ける作品の中、前述のスルターンの妃は妖精のような美しさでしたし、ラージプートの王の腹心の臣下ふたりはもう本物のラージプートにしか見えない完璧な仕上がりでしたし、その戦士した臣下の母親もよかった。スルターン側の腹心の部下にも気になる俳優さんが2名ほどいました。

役がついている俳優がすべてよいという意味でも贅沢な作品です。全員について書きたいところですが、そろそろウザいと思いますので、ここは2名に絞ります。

宦官マリクの悲哀

楽園の香油のくだりで鮮烈な登場をした宦官マリクは、影に陽にスルターンに常に寄り添います。

スルターンの入浴を手伝い、その後の戯れに寝屋に向かうスルターンのそばで、突然マリクが歌い出すのが、“Bint-e-Dil Misriya Mein(我が心が愛するエジプトの娘よ)”(前述・麻田豊先生に教えていただきました)

初見時、湯船で半裸でナルシスト全開で踊り出すスルターンと、燈台を片手に直立不動で歌い出すマリクがあまりに唐突で、インド映画に慣れているはずの私が思わず「わはは」と笑ってしまいました。

しかしこの曲の脳みそへのこびりつき具合は半端なく、結局、その夜、一番強烈に何度も頭をぐるぐる回っていたのはこの曲でした。

歌うプレイバックシンガー(吹き替え歌手)はArijit Singh。4月から公開される『ダンガル きっと、つよくなる』でも一曲、歌っています(カットされていなければ)。かすれ気味の甘めの声質と、異国情緒に溢れた旋律がピタリとはまって、圧倒されます。

話は逸れますが、私はひと昔前のプレイバックシンガーはなんとなくモタモタ歌う気がして、親しみはあれども、歌い手としてはそれほど好きではなかったんですね。15年くらい前まではプレイバックシンガーの数が限られていて、どの映画を見ても俳優は違うのに同じ歌手が歌っていたりして、食傷気味だったのかもしれません。もちろんファンは今でも多いですし、歌の技術が悪いという意味ではまったくないのですが、甲高い声や甘すぎる声があまり好きではありませんでした。

しかしここのところ、単体で歌手として聞いても好みと思える歌い手が男女ともにたくさん出てきて、映画音楽の楽しみがいっそう広がってきました。インドのプレイバックシンガーは古典の声楽をみっちり習得してきた人たちでもあり、口パクってなんだっけと、いつのまにか「歌手」ではなく「アーティスト」などと呼ばれる人たちが画面に写る日本のテレビをボーッと眺めてしまいます。

さて話は戻り、この宦官マリク。

ハルジー朝の前、13世紀にあった奴隷王朝(すごい名前です)では解放奴隷の売買が盛んであったことなどから、このマリクもさまざまな経緯を経て売買されてきたことは冒頭の登場シーンからも分かります。

きわどいシーンは一切出てきません。が、「そばで尽くしている私ではなく、遠くにいるあの女に貴方はなおも恋い焦がれるのですね」というシーンがあり、スルターンもほかの臣下たちよりも明らかに親密に扱っています。

せっかくやってきた王妃が王とともに去って行ったあと。

うなだれながら「私の運命には愛という言葉はないのだろうか」と手相をマリクに読ませるスルターン。

「そちがここに刻んではくれぬか」

弱々しくそう呟くスルターンに、「できません」と返し、涙を流しながら手のひらに接吻するマリク。

このふたりは絶対の主従関係にあるにも関わらず、追い求めるものを決して手に入れられぬという意味で同志であり、裏切りだらけの王朝で唯一、痛みを分かち合っているように思えました。

マリクは残忍な一面も持ち合わせており、好人物という描き方をされてはいません。しかしその出自やスルターンからの扱いを思うにつけ、彼(ではなく本当はプレイバックシンガー)が歌うエジプト娘への思いを込めた歌に悲哀が漂って。

まさかの2回目鑑賞時、大号泣。初見で大笑いしたのに!

マリクを演じたJim Sarbhは”Neerja(2016)”で頭のネジがぶっとんだハイジャック犯を演じていました。正体の見えなさや残忍さとともにいろいろな意味で色気がある俳優で、これからとても楽しみです。

 

悲しみにくれる第一夫人

さてこの物語にはもうひとり、追い求めるものを手に入れられない人物が出てきます。

王ラタン・シンの第一夫人ナグマティです。演じるのはAnupriya Goenka、2017年12月に公開されたばかりのサルマーン・カーン主演のスパイもの”Tiger Zinda Hai(タイガーは生きている)”では、結婚が決まったばかりという設定で、拉致監禁されるナースたちのまとめ役を演じていました。

もしPadmaavatが当初の予定通り12月1日に公開されていたとしたら、年末の大作2作に彼女が出ていたことになります。

本作では冒頭、なんらかの手違いで人手に渡ってしまった(このあたり少々記憶が曖昧です)「『シンガル王国の真珠』を手に入れてきて」と夫である王ラタン・シンをはるか遠くのシンガル王国まで旅に出します。

結果、王は真珠とともに若く美しい姫君を連れ帰り、王妃とします。

ナグマティは「バリー・ラーニー(大きい妃)」、パドマーワティーは「チョーティー・ラーニー(小さい妃)」と呼ばれ、美しいだけではなく才覚もあったパドマーワティーは後宮の女たちの心もつかんでいきます。

王とパドマーワティーの強固な結びつきを見せつけられ、ナグマティはずっと浮かない顔をしています。

王がアラーウッディーンに連れ去られたときは「全部あなたのせい! アラーウッディーンはあなたが来たら王を返すといっているのだから、その条件をのんで連れ戻して!」とパドマーワティーを責め立てます。

結果、パドマーワティーはアラーウッディーンの本拠地に乗り込み、身内に犠牲を出しながらも王を助け、「王を救った王妃」というビッグタイトルをひっさげてチットールガルに戻ります。当然、ナグマティはまったく面白くない。

挙句、ジョウハル前の女たちのまとめ役も小さい妃が取り仕切りました。

この人を描いた意味はなんだったのだろうとずっと考えていたのですが、どこの世界にも、光り輝く表があれば、その影に入り負の感情を放つ裏がある、ということなのかもしれません。脇役のなかでも特に忘れられない人物です。

結局すべてをマンズール・ハェ

本作は上映抗議行動や、現在も上映ができていない地域があるなど、波乱含みで公開されました。

観客には届かないところで修正があったかもしれず、できればそういったものがない完全版(?)を観てみたいと思います。

しかし、そういった騒動も、作品の幻の完全版も、日本人の自分としては、現時点では受け入れるしかないものと思います。

作中、王妃パドマーワティーがスルターンの元に向かうにあたり、いくつかの条件を出します。

いわく、宮中の女たちを800名同行させること、スルターンに会う前に王ラタン・シンの元に行き無事を確認することなど。最後の条件はお楽しみ(実はあまり楽しくはない)ということで伏せますが、これらの条件を受け入れるという意味で、スルターンが発するのが。

「Manzur hai(マンズール・ハェ)」

インドの公開初日と同じ日に、東京で、厳しいボディチェックもなく思う存分この作品を鑑賞することができただけでも万々歳。ほかのことはひとまず、マンズール・ハェでいいのかな、という気がします。

願わくば、この素晴らしい作品を、日本語の字幕で鑑賞したいです。

物語の特徴上、すべての人にぜったいおすすめ! と言い切れないところではありますが、いろいろあるインド映画のなかでも、こういう重厚な歴史大作をこそ、大きな配給会社がきちんと予算をかけて配給していただければ嬉しいですね。

アンジャリ(Anjali)

アンジャリ(Anjali)

Masala Press代表・印流楽しいこと案内人。神奈川県茅ヶ崎市生まれ。東京外国語大学インドネシア語科卒。学生だった1997年にバックパッカーとして単身インドを訪れ3ヶ月を各地で過ごす。以後、インドの舞踊と映画に心酔。ガイドブックなどのライターを経て旅行会社に就職、インド専門添乗員を務めるも、2001年からはインドとロンドンを拠点に放浪生活を送る。2006年に本帰国、外資系証券会社に再就職、10年間の会社員生活を経て、現在、インド映画の印流ブームを興すべく奮闘中。

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